おかえり

もどってきちゃったのでおかえりです

9月10日「どうでもいい、と思われること」

「どうでもいい」という気持ちはどこからどのように発生するのだろう。他人に対するどうでもいいという意識は、一体どこから来るのだろう。

 

ある一定のラインを超えた時、人は人を「どうでもいい」にカテゴライズする瞬間があるように思う。それは自分の気分を害された時なのか、雑に扱われた時なのか、はたまた面倒になった時なのか。それは人それぞれだろう。

 

人はみんな自分のことを可愛いと思っているはずだし、道徳の時間でも「だめな人間なんていない」と教わってきたはずなのだ。でもやっぱり人は人に対して無関心になる瞬間が存在する。

 

嫌いという感情が持てるだけ本当に恵まれているのだ。どうでもいい、という意識は他人を透明人間にしてしまう。ある一定のラインを超えた瞬間、一定の感情を超えた瞬間、その人は意識下から姿を消す。嫌いと思えるうちはまだ意識の中に生きているのだ。

 

人に嫌われるのと人にどうでもいいと思われるの、どちらがいいんだろう。まだ意識されているだけ嫌いの方がマシなんだろうか。そもそもなぜ人は人に認知されないと生きられないんだろうか。人に生まれてしまったことがときおり悔しくなってしまう。プラナリアとかになりたかった。

9月3日「人生はまだ続くよ」

高校時代の友人に「25歳にまでに結婚できなかったら死のうかな」とLINEをしたら「私はとっくに諦めている」と来た。無視をしていたら、「結婚できたところでどうするの?人生まだまだ続くよ」と続けてメッセージが来る。

キュウソネコカミかよ、と思った(キュウソネコカミのアルバムに「人生はまだまだ続くよ」というタイトルのものがある。)

 

この友人は以前に会社の上司に振られた際、「あなたが私にくれたもの、たくさんお米が炊ける土鍋」「あなたが私にくれたもの、可愛い私のLINEアイコン」などという文面を送って来たり、恋をしている時も好きな人との1日の思い出を「今日もあなたが好きでした」の文章を添えて、私に送って来るようなユーモア溢れる人間である。だから7年弱も交流が続いているんだろう。

 

しかし、いつもは読み飛ばすはずのメッセージを前に私はふと立ち止まってしまう。私は結婚したらどうするんだろう。

「明日死なないために今、守るべき人が欲しい」とか「結婚したら収納をちゃんとするためにテプラを家中に貼る」とか、そういうことは考えられても、結婚したらどうなるかなんて、私はほぼ考えていないに等しいことに気がついてしまった。いや、今更かよ。

 

相手がいないうちには相手のことを考えられない、というのが正解だと思いたい。まだ見ぬ相手との結婚生活なんて想像出来る方が気持ち悪くない?と考えることでなんとか自分の平静を保とうとしたけど、そういうことでもないよな、と思い、勝手に意識が袋小路に入っていく。

 

 

また平日が始まる。平日、退勤をした後、帰るまでの虚無に本当に耐えられない。

20時以降一緒にご飯を食べてくれるような心の優しい方はいませんかね。あっ、奢りたくないんでできれば学生以外の方でお願いしたいんですけど。

8月31日「2度目がないことについて」

2度目がないということについて過剰に気にするのはなぜかといえば、私に「興味をもたれていない」という事実と向き合いたくないからだ。ここでいう2度目、というのは私と、「他者」が1回遊ぶなり、食事するなりした後の「もう一回同じ人と遊ぶなり食事するなりするという行為」ということだ。

 

基本的に誰かに会った後、よっぽどお互いの印象が悪いとかでもない限り、「今日はありがとう!」というようなお礼をその日のうちか翌日にするよね?それからしばらく(たとえば何週間ぐらいか)経っても「次はどうする?」みたいな話がないとすごく不安になってしまう。これは私に「もう一度会いたい」と思わせるような人間的魅力を保持していなかったからなのではないか、と悲観的になってしまうのだ。例えば「また今度行きましょうね~」と言ったとして、そのまた今度はいつなんですかと。何月何日何曜日地球が何回まわった時?

完全にこういう考え方は自意識肥大化の最たるものだ。人には人のスケジュールや生き方があるわけだし、本当に死ぬほど忙しい場合って誰かに会うとか考えられないし、特に深い関係でもない私に会いたいとか会いたくないとかそこまで考えているわけがない。

 

なのに、人から誘われないと「私に興味がないんだ」と不安になってしまう。自分が「人に興味を持たれる人間ではない」という意識がずっと拭えないために、他人の言動からその意識を強くさせたがっているだけだ。そこまでわかっているはずなのにめちゃめちゃ不安になっていくのってなんでだろうな。なんかすっごく怖い。

一応私もまともに生きていきたいという気持ちがきちんとあるので、そういう不安を当人に出すこともなく、ちゃんと次をお誘いする。友人だろうが、フォロワーだろうが、好きな人だろうが、自分が会いたいと思ったら、肥大化した自意識は一旦置いといて、自分から誘っている。でも、またふとした瞬間に思うのだ。「私ばっかり誘っているけど、この人本当は私のお誘いが嫌なんじゃないのかな。」と。

 

結局そういう自己否定の意識ってずっと残り続けるから簡単には払拭できない。そうしてなんとなく私から疎遠になると、向こうも特に連絡をすることなく疎遠になっていく。そんな人間関係ばかりを繰り返して来た。

本当はちゃんとわかっている。私以外の人は私に興味がなかったら、私の誘いを普通に断るのだ。私以外の人にとって単純なお誘いの有無なんて、本当に些細なことで、とりとめもない、どうでもいいことなんだ。

人間的魅力がほとんどないのに、有名人でもないのに、話が面白いわけでもないのに、顔が可愛いわけでもないのに、「私に興味がないんだ」って落ち込むのってちょっと自分のことが好き過ぎだよね。自分が好き、という気持ちを他の誰かへの好きに向けられたらいいのにね。

 

8月27日「どうして君はひとりしかいないの」

椎名林檎の「おいしい季節」という曲を今更になってずっと聴いている。

顔の見えないコミュニケーションに失敗し、会っても「話題がつぎはぎ」なので結局身体を重ねるしかない、という最悪の曲だ。I SCREAM !

 

基本的にコミュニケーションは人間生活の中でトップクラスに難易度が高い。

 

昨日も言ったけど、顔の見えないコミュニケーションで大事なのは「タイミング」と「文章の長さ」と「内容」だと思っている。人に既読無視をされてしまうのは、この3つのどれか1つが足りてないからによるものだ。「タイミング」が合ってないと、「あとで返そう」となるし、「長さ」が合ってないと「返事しづらいな」となるし、「内容」が合ってないと「別に返さなくてもいいか」となるものなのだ。たぶん、おそらく、経験上。

 

それを踏まえると、会ってからの方がまだコミュニケーションとしては取りやすい。この場合、3つのうちの長さは気にしなくてもいい。あと、タイミングも読みやすい。「今はこの話をするべきじゃない」というのがある程度わかるからだ。でもここで重要なのは「ある程度」というところで、全部のタイミングがわかるわけじゃない。相手が持つタイミングを全部合わせるなんて不可能なのだ。だからこそたまにそういうタイミングが合う人のことをみんな「気が合いますね」という言葉で、「認定証」を与える。

 

で、まあ最後の身体を重ねる段階ってそもそもコミュニケーションだと思われてないことが多い。結局「おいしい季節」でもそうだけど、身体を重ねておけば、その前のコミュニケーションが多少まずくても、気持ちよくなれるし、なんだかんだ上手く行くだろうと思っている人がそういう方向に走りやすい気がする。でも大半は自分の気持ち良さを押し付けているだけなので、それが上手く行くと考えているところがおかしいよなと思う。終わった後、音信不通になったという話を聞くけど、あれも結局コミュニケーションを取れていないわけだから、その先もコミュニケーションなんか取りたくないな、と「選別」されただけに過ぎないのだ。人としてどうか、なんて話をコミュニケーションをろくに取れなかったくせにしてんじゃねえよ。コミュニケーションが取れて初めて人権がもらえるんだよ。コミュニケーションが取れない人間に基本的人権は保証されない。

 

そんでもって今日も私は会社の人間と目をあわせずに話してコミュニケーションを自分から積極的に拒絶しているし、人からのLINEには返信しないし、社用携帯に先週からかかって来ている非通知もずっと無視し続けている。そのくせ人のツイートを眺めては、自分より恵まれた人間の多さに絶望してしまうのであった。終わり。

 

8月24日「8月の総括」

最近本当に意味がわからなくて無為な時間を過ごすことが多い。

たぶん腐ってるんだと思う。どうしようもないからこそ、意味のある生き方ができないんでしょうね。

 

今週聴いた話で面白かったのが、「ストラテラ飲んだら意識がなくなって事故った」のと、「中国で『車で行ける街に案内するよ』と言われて、車で70時間かけて街まで移動した」のと、「駅で死ぬほど吐いてた時に吐瀉物を片付けてもらった男性にホテルに連れ込まれた」の3つだった。自分より頭おかしいやつがこの世の中には無数にいるんだなと思うと興奮してくる。暇さえあれば、誰かに会って孤独を解消しようとして、その大半はだいたい失敗するのだが、こういう話を聴けるとやっぱり人に会ってよかったなと思う。

 

自分の話をするのが本当に苦手で、何を話したらいいかわからなかったんだけど、今月に入ってからだいぶ自分の話ができるようになった気がする。どうやら自分の話をしないのは基本的に自分が相手に関して興味や関心がないためらしい。今更悟ったのか、という感じではある。

 

来週、ちょうど1週間後に24歳になる。2424歳とツイートで言い続けているけれど、本当はまだぎりぎり23歳なのだ。23歳になって最初の朝、仕事でお邪魔した相撲部屋の若い力士がふざけて私に見せてきた局部のことを私は死ぬまで忘れないだろう。

 

23歳のうちに成し遂げたかったことはおそらく何一つとして出来てはなくて、24歳になったところで、やりたいことは何もできそうにない。30歳までに結婚してなかったら、本格的に死を選びたいけど、死を選ぶまでもなく、糖尿病か心筋梗塞でぽっくりいってしまいそうな気もする。

 

生きる希望と守りたいと思える家族を23歳のうちに見つけたかったな、という後悔だけが、ふやけた紙のように脳髄に浮かんでいる。まだ生きていたいんだろうな、と曖昧に思う。

 

守りたいと思えるような家族なんか本当はいなくてもよくて、ただ孤独死したくないからってだけなのだ。このままいくと孤独死確実なんだけど、その時に私の死体を最初に見つけてくれる人が欲しいだけなのだ。そのために人と共同生活をして社会的枠組みの中に確固として組み込まれたいという欲求がある。

単純に結婚詐欺でも全然幸せかもしれない。でも私から巻き上げられなそうな金がないから、詐欺師が寄ってこない。宝くじでも当たんねえかな。

 

結婚詐欺師を追い詰める番組ではだいたい休日に詐欺師がパチスロに行くことが多いのはなぜなのか。別に株やっててもいいし、それこそ豪華なディナーでも食べてて欲しい。なんで金を持っているのにパチスロなんか行くのか。その謎は未だに私の中でくすぶっていて、はっきりした理由が出ていない。誰か理由を知っている人がいたら教えてほしい。

 

7月6日「奇跡が起こることを信じてんだ」

 

空飛ぶタイヤ」の有名なセリフなんですが、長瀬の「信じてんだ」の変なイントネーションが気になって、全然集中できませんでした。それ以外は本当にいい映画です。

岡山天音君とTKO木本がほぼエキストラに近い役柄で出演しています。あれに気づいた人はどれくらいいるのでしょうか。

 

話は変わって。

先日、こういうツイートをしたら

 

ある方からなんかすごい量来たんでまとめます。

これでも一応文学部出身なんですよ私。

 

青山七恵

早速なんですが、正直言って吉本ばななに寄せてる人って感じしかないですね。

「ひとり日和」は好きですが、あれもなんか吉本ばななを強く意識した感じがしました。好きな人はかなり好きだろうなと思います。今の時代、なんやかんやで激しいドラマを求めている人が多いとは思うので。そういう時代に逆行しているというか、そうじゃないものを求めている人の需要にうまくあっているんじゃないですかね。

ひとり日和 (河出文庫)

ひとり日和 (河出文庫)

 

 

ひとり日和 (河出文庫)

ひとり日和 (河出文庫)

西村賢太

またネガティブで申し訳ないのですが、人間としては面白いのかもしれないけど全然好きになれません。「苦役列車」もあまり面白さがわかりませんでした。たぶん私の読解力というか小説を読む側の教養?わかんないけどそういうものが足りてないんだと思います。だから楽しめないんでしょうね。西村さんの作品好きな人は結構多いのでますますそう思います。

苦役列車 (新潮文庫)

苦役列車 (新潮文庫)

 

 

佐伯一麦

 すいません、知ったかぶりをしてもどうしようもないのでいいますが、全く存じ上げませんでした。勉強不足ですいません。

知らないし、読んだことない人に関してあれこれとは語れないです。検索すると私小説の名手とのことなので、未読なのも納得がいきました。そういう私小説的なものにあまり興味がないんです。

 

谷崎潤一郎

は、高校1年生くらいに相当数読みました。読んで思ったんですが、自分のやりたいことを小説の中でここぞとばかりに実現させようとする小説家の最たる人ですよね。この小説を世に出してどう、とか本当はあまり思っていなかったんじゃないかと思います。

私がおすすめする谷崎はどちらも短編ですが、「冨美子の足」と「少年」です。たぶん中村佑介さんの絵で「マゾヒズム短編集」という文庫が出ているのでその中に二つとも入っています。

デビュー作の「刺青」も本当に大好きです。一体何人の人間があの小説で性癖をめちゃくちゃにされたのか……。 

 

川端康成

これは私感ですけど、物語を動かすまでの空気がすごく重いなと思います。「伊豆の踊り子」や「雪国」にしても、もっと軽く明るく書こうと思えば書けてしまうと思うんですよ。でも、物語が動いて立ち上がっていくまでの時間とか空気とかをとても重要視しているな、と思います。

リンク貼ったのはまきこのおすすめ小説です。

掌の小説 (新潮文庫)

掌の小説 (新潮文庫)

 

 

大江健三郎

私の棺桶に入れて欲しい小説、「ロリータ」に取り憑かれている人の一人です。

彼はロリータに並々ならぬ愛情があって(それは自分がロリータと同い年だからなのかもしれませんが)それをどうにかして自分の小説世界でも表現したいという気持ちがあるように思います。

死ぬほどつまんないやつと捲る手が止まらないやつの二つに分かれるような気がします。平たく言うと当たり外れがある、というか。

個人的には「二百年の子供」が好きです。読売新聞でも連載していたやつですね。 

二百年の子供

二百年の子供

 

 

とりあえずは以上です。

個人的に好きな作家は恩田陸佐藤正午古川日出男です。

またこういう機会があったら紹介したいと思います。